三崎稲荷神社の歴史
三崎稲荷神社は今から八百有余年前、鎌倉初期の建久(1190~)以前乃至は平安末期平清盛時代の仁安(1166~)の頃とつたえられています。
当時の神田山の山麓 武蔵の国豊島郡三崎村(本郷一丁目あたり)に鎮守の社をおまつりされたのが、三崎稲稲荷の創祀と言われています。
大永四年(1524年)正月、小田原の北条氏綱(白雲の子)が江戸に来た時三崎稲荷を参拝し、社地数千歩を献り、村人の豊楽を祈られたと記録されています。
天正十八年徳川家康が江戸に入城し、江戸市街の開発に取り組み、神田山を崩して海を埋め立てました。銀座や日比谷はそのときに出来ました。三崎稲荷神社もそのために今の文京区後楽に移す。
二代将軍秀忠の時に、小石川から南流していた流路を真東に付け替えて浅草橋で隅田川に合流するようにしました。三崎稲荷の敷地内が掘割となり、東南方に移転。その後も幕府の都合により、その度に移転。
幕末の混乱の時代に外国船の来航や、薩長などの軍備に対抗すべく、幕府は近代的な軍備を整えるために、三崎町に講武所を開設。その為神社を移転。(陸軍錬兵場(旧講武所)は、明治23年に三菱に払い下げられ、市街地として三崎町の開発がおこなわれる。)
明治三十八年甲武鉄道の開通により現在地に移される。
大正十二年の関東大震災、昭和の大戦で本殿を残しすべてを烏有に帰しました。
現社殿は昭和三十八年に復興造営しました。
戦後の神社 平成3年社殿造営工事
清めの稲荷・旅行安全守り
徳川三代将軍家光が参勤交代の制を定めた時に、自ら当神社を崇拝するのみならず、大名にも尊信せしめました。大名が参勤登場する場合には、まず三崎稲荷に参拝して心身を祓い清める事が恒例となり、「清めの稲荷」といわれました。
参勤を終えた大名は、三崎稲荷に道中の安全を祈り「道中安全守り」を受けて帰途につきました。(三崎一小林)