こちら神保町「銭湯特集・その2 キカイ湯 第1回」

三崎神社ならびに太田姫神社の例大祭も終了し、神保町地区も華やかな賑いから少しずつ落ち着きを取り戻してまいりました。

「こちら神保町」ブログでは、執筆記事が盛り沢山の三崎神社の記事掲載が今後も続くと思われますが、梅雨入りとなる前に本企画も第1回目が6月5日にスタートしました。

 

神保町地区では、今では数えるところ後1つ限りとなりました銭湯。 

温泉ではなく、地元地域に根差した銭湯を利用された経験のある皆様にとっては、この言葉が昔の懐かしい思い出につながる方も多いことと思います。

 

*地域コミュニティの中核機能

*公衆衛生

*子供が大人社会を垣間見る勉強の場。公衆マナーを学ぶ場。

 

と言った機能を果たしていた銭湯について、神保町地区において振り返る、というのが今回の企画です。

 

まずは、銭湯の歴史について簡単におさらいをしてみます。(出典:ウィキペディア)

 

古代:仏教伝来時、僧侶が身を清めるために寺院内に「浴堂」が設置され、病を退け福を招来するものとして、入浴が奨励された、とのことです。

 

中世:江戸時代には、天正19年(1591)江戸城内の銭瓶橋(いまの中央区日本橋北)のたもとに伊勢与一が開業した蒸気浴(薬草による蒸し風呂、入浴料1銭)が銭湯の始まりとされているそうです

当時は、庶民の娯楽、社交の場として機能し、落語も行われたとのこと。 なお、当時は内風呂を持てるのは武家屋敷に限られ、火事の多発した江戸の防災の観点から、内風呂は基本的に禁止されていた、とのことです。 

 

近代:明治に入り、神田連雀町の鶴沢紋左衛門が考案した、天井が高く、湯気抜きの窓を設けた、広く開放的な風呂が評判となり、現代的な銭湯の構造が確立した、とのことです。

 

現代:戦後、都市人口が増えるに連れて、銭湯も増えて昭和40年(1965年)頃には、全国で約2万2000軒を数えるようになった、とのことです。

高度経済成長期以降、風呂付の住宅が一般的になったことも、一因となり減少傾向が促進されることとなります。

東京都においては、昭和39年(1964年)の調査で、銭湯を利用している世帯は全世帯の39.6%だったが、昭和42年(1967年)には30.3%まで減少しています。 この時期は、自家風呂が急速に普及した時期と重なることから、この時期を境に銭湯が急速に減少していったと推測されます。

 

前置きがいささか長くなりましたので、「キカイ湯」の具体的なご説明は、次回以降につづく、とさせて頂きます。

 

神田猿楽町町会HP担当-青野