縁故疎開
三崎一の小林です
戦後65年以上も経過し、戦争を知っている人は少なくなりました。
昭和19年になると日本の都市施設に爆撃機B29による空爆が激しくなり、大都市圏児童の生命をまもるために19年6月「学童促進要綱」が決定された。この決定により「縁故疎開」を原則としつつ、それが不可能な国民学校初等科3~6学年の児童を半強制的に集団疎開をさせた。
私は小学校入学前でしたので、はやばやと18年3月遠い親戚を頼って北信濃の田舎に母や妹・弟と疎開しました。幸い現地のこどもたちが遊び仲間にいれてくれ、木登りをしたり、川遊びをしたり、山野をかけずり回り健全な生活を送ってました。
ただ食糧難で、麦入りごはんは良い方で、じゃがいも・さつまいも・トウモロコシの粉のスイトンなどが主食でした。米が入らない麦だけの日もありました。 母は近所の農家や果樹園に手伝いに行って僅かな食糧をもらってきていました。
ある日、東京の家の裏の子(豊島区の小学校に在学)が志賀高原上林温泉に疎開しているのを聞き、母につれられて慰問に行った記憶があります。 当時は木炭バスで、急坂では乗客は降りて歩かされました。上林温泉は温泉プール付の立派な宿でした。
神田区の学童は、埼玉県と指定されており、お寺がほとんどですが、豊島区は長野県で3分の1は旅館に疎開できたようです。
旅館を宿舎にした学童たちは、広い風呂場や温泉・トイレ・炊事場等の整って恵まれていましたが、お寺の本堂で生活した学童は、旅館に較べて狭い風呂場、離れたトイレ、設備のっととなわない炊事場などと環境は劣悪だったようだ。
私は21年8月、小学2年に疎開から帰ってきました。
次回は錦華小の疎開を書き込みます。