学童疎開 錦華そのⅠ
太平洋戦争末期、昭和19年6月に「学童疎開促進要綱」が閣議決定し、各学校にも通達される。
神田区の疎開先が埼玉県と決定し、当時の長谷川校長以下手分けをして現地に何度も足を運んで交渉し、下記のお寺を疎開先と決定した。
交通・医療・物資等の条件を考えての疎開先を探す先生型の努力は、並大抵のことではなかったようです。
疎開先:児玉郡
本庄町 安養院 (3・4・6年女子)139人
仏母寺 (6年女子) 48人
引率教員 田口春雄 直江久美 茂木千枝子 中川みよの
児玉町 玉連寺 (5年男子) 44人
実相時 (5年女子) 38人
鳥屋旅館(5年男子) 30人
引率教員 柿沢寿男 菅根祥子 小塚鉄三郎
丹荘村 長慶寺 (4年男子) 35人
普門寺 (3年男子) 23人
引率教員 星島彊一 宇田川裕子 高梨操
青柳村 大光普照寺(3・6年男子) 75人
石重寺 (6年男子) 37人
引率教員 斉藤薫 玉置富子 森田惣七
児童の疎開持ち物は、寝具、衣類(寝間着・下着等)、日用品(食器・手ぬぐい等)、履物、その他(教科書・学用品等)
寝具、衣類等は一人20キロ以内とされた。
当時は統制経済であり、「配給切符通帳」がないと食糧や衣類が購入できないので、全児童の転出証明をもらい、疎開先の町村役場に提出する。
引率教員は学寮長と称し、食糧の心配、対外折衝、会計、寮母や作業員の監督、本部との連絡など何もかも兼務し目の回るような忙しさだったそうです。
19年8月21日 お茶の水駅から乗車、上野で高崎線に乗り換えて疎開先に向かう。
疎開にも行けない一二年生や病弱そのたの事情で集団生活に参加できない児童が2~30人おり、数名の職員がめんどうをみていました。 空襲警報がなるとくもの子を散らすように下校していた。
終戦後の疎開先からの最終引揚げ日は21年3月となっています。(三一小林)
(余談ですが、21年に私が縁故疎開から帰ってきての担任は 2年次茂木先生、3・4年次高梨先生、5・6年次田口先生)