西神田の名店紹介 「一膳」その2
その店長、
「西神田の永遠の若大将」水村忠奥さんに
一膳の歴史をインタビューしました!
ビール飲みながらなので若干うろ覚えですがー。
ーえっと、最初は喫茶店だったんですよね?
「そう、喫茶学校ってのが昔あってさ、そこで珈琲の勉強したんだよ」
ー喫茶学校?そんなんあったんですか?
そこ出て、最初は御茶ノ水の”純喫茶 丘”ってところで働いたんだよ。地上6階、地下2階のフロア全部喫茶店。1,500人くらい入るとこだよ。」
ーえええ、1,500人!? そんなに人はいるんですか?
「そう。だからコーヒーもまとめていっぱい作るからさ、
ドラム缶みたいな大きい機械でコーヒーいれるんだよ。
一度に300人の団体さんが入った事もあったなー。」
ーはあ〜、ドラム缶!300人!すごいですね〜。
「21の時にそこ入ってさ、サブチーフやってたんだよ。
もう、いっそがしくってさ〜大変だったよ〜。
そこは1年半くらいいたな〜。」
ー純喫茶全盛期ですね。その後は?
「神田駅の近くの”メイワ洋菓子店”ってケーキ屋。
そこは八ヶ月くらいいたかな。」
ーお、今度はケーキ屋ですか。
「うん。でもケーキ屋の仕事もすぐ覚えちゃってさ。
覚えちゃうともうつまんなくなるから辞めて、その後は銀座。」
ーおお!銀座の喫茶店!重厚な響きですね。
「『おちあい』って名前の喫茶店なんだけどさ、
『銀座で落ち合う』って意味か〜シャレてんな〜と思ったらさ、違うの、単にオーナーの名前が落合さんだったんだよ。」
ーあ〜…、銀座ならではの勘違いってやつですかね。
「その店も繁盛しててさ、15坪くらいの広さで、コーヒー1杯250円なんだけど1日60万くらい売り上げあったな〜。」
ーそりゃまたすごいっすね。コーヒーだけで換算すると2,400杯分!
「もう、いっそがしくってさ〜。最初洗い場やってたんだけど、
カップやらお皿やらどんどん溜まってくんだよ。
どんどん洗わないと皿を下げる場所がなくなっちゃう。」
ーそれキツいっね〜。
「洗うのはすぐ慣れてスピードアップしたんだけど、
それっばっかじゃつまんないから、いろいろ作るほうにまわしてもらったの。
俺なんでも作れるからさ。」
ーああ、もう3軒目ですもんね。
ところで、銀座ってことは服装もそれなりな感じだったんですか?
「ああ、黒服着て蝶ネクタイしてたよ。お客さんがタバコ吸う時のためにデュポンのライター持って。」
ー出ましたデュポン!
「靴は毎日店の近くで靴磨きのおばちゃんに磨いてもらってたよ。 このおばちゃん凄いんだよ。台に足のせるとさ、顔上げなくても『あ、水村さん』ってわかるんだよ。
で、靴墨ちょっとだけ付けてうすーくのばして綺麗にしてくれんだよ。」
ーははあ…何か、昭和の香りただようエピソードですね。
「香り」より「かほり」のほうがしっくりくるような…
その頃の喫茶店事情をいろいろ調べると一冊の本になりそうです。題名は「喫茶室の窓から見る昭和の景色」とかなんとか…
ほかのお店の話とかも喫茶店の話とかも聞いてみたいですね。
まあ、それはまたの機会に。
「で、そこの喫茶店のマネージャーは喫茶学校の先生やってる人なんだけどさ…」
ーあ、それって働く前に行ってたっていう喫茶学校?
「そう、有名な人でさ、本も出してたんだよ。”喫茶&スナック”って題名だったかな。」
ーおおスゴいですね本まで。
「毎月、勉強会みたいなのもやっててさ、喫茶学校出た人が集まっていろいろ新しいメニュー考えたりすんの。」
「コーヒーゼリーはそこの勉強会で開発して、日本で最初に出したんだよ。」
ー日本初!へえ〜!
「いろんな事やってたね。あとさ、喫茶学校の生徒が店出す時のコンサルティングもやってたよ。」
ー喫茶店って流行ってたんですか?
「その頃は喫茶店い〜っぱいあったよ。そんな時代だったんだね。で、俺はその開店を手伝うわけよ。『今度あそこに店出来るからお前そこ行ってこい』って先生に言われてさ。
で、三ヶ月くらいでその店が軌道に乗るまで面倒見て、次また違う店行って…ってそんな感じ。」
人に歴史あり、といいますが
なんだか、聞けば聞く程いろんな事やってた水村忠奥さん。
「一膳」の歴史を聞こうと思っていたのですが、まだ最初の喫茶店にすらたどり着きません。
実は、子どものころの三崎町の実家の話も聞いたのですが
(紙の断裁工場だったそうで、子どもの頃のお小遣いは紙の切れ端の固まり!それがお金になった!とか色々…)
いちいち書いてるときりがないので、その辺は、また改めて伺いたいところですね。
題名は「三崎町三丁目の夕日」とかにして。
それはともかく、このあと水村忠奥さんに転機が訪れるのでした。
その転機とは…
水村忠奥さんに訪れた