神田猿楽町 町会内のお店(仕事)紹介 第4回―鳶職 片口土木の片口太仁(かたぐち ふとし)さん
2011年(平成23年・卯年)最初にご紹介するのは、猿楽町にお住まいの鳶の小頭、片口太仁さんです。
今回はご本人が日常従事されている仕事の紹介に加えて、古くからの歴史があり祭礼等にて地元各町会との結びつきの強い特別な仕事(伝統技芸の継承)についても紹介します。
それでは紹介のはじまりです。
まずは、ご自宅前での片口さんの写真です。
玄関に設置のディスプレイ・ウインドウに保管されている、纏(まとい)、梯子(はしご)と名札。
神田祭における写真です。
1. ご本人のプロフィール紹介
神田猿楽町に3人兄弟の3番目として昭和45年に生まれ、学校卒業後に家業の鳶職に就かれました。昨年ご逝去されたお父様(片口 勝様)の後を受け継いで、片口土木の社長として日夜業務に励んでおられます。
地元の神保町地区連合町会では、祭礼を始めとする各種行事に携わる他、お茶の水小学校において伝統技芸としての「木遣り」「梯子乗り」等の紹介・披露をされています。
片口家と猿楽町とのご縁はとても古く、明治32年には「消防第4区5番組」の幹部役として曾祖父となる片口 ハ十ハ 様の名前が史跡に残されています。
2.鳶(とび)職の仕事
2-1.名称の由来
建物の新築の際に行われる上棟式において、梁から梁へ鳥のトビのように飛んだとの伝承や、業務上使用される代表的な道具が「鳶口」であったことから、鳶(とび)職の名称が付いたと言われています。
2-2.鳶職としての通常の仕事
主な業務として、建築現場の足場の組立て、型枠の組立て、地山の掘削及び土止め、建築物等の鉄骨の組み立て、木造建築物の組立て、コンクリート造工作物の解体等が挙げられます。片口さんの仕事現場は、関東圏の広範囲に及びます。
高所作業の特殊業務としては、クリスマスのイルミネーションの取付け等もあり、古くは東京タワーの建設にも鳶職は関与されたそうです。
ちなみに片口さんは、「1級とび技能士」の資格を取得されているエキスパートです。
ここで、もう一つの特別な仕事の説明に入る前に昔の鳶職について説明します。 少しばかり話が長くなりますが、ご容赦ください。
3.昔の鳶職について
3-1.昔の鳶職の仕事内容
古く江戸時代より都市部において地域相互扶助の単位として「町」という共同体が存在し、公的な団体として自治活動が行われてきました。この自治活動の場において、町鳶と言われる職人は、冠婚葬祭の互助活動、消火活動、祭礼の準備(神輿や山車の組立て)、橋や上下水道の整備・保守等の産業基盤の整備を大工職人と共に担っていました。
3-2.町火消としての役割
江戸時代初期には火消の制度が定められていませんでした。 当時は木造建物を火災から守る設備・技術が発達しておらず、数多くの火災が発生しました。
特に明暦3年(1657年)に(現在の文京区)本郷から発生した火事は”明暦の大火(振袖火事)”と呼ばれ、江戸城天守閣が焼失し数万人が犠牲となる大災害となりました。そこで、江戸幕府は消防制度の確立に尽力することとなり、初期には武士によって構成される武家火消(定火消、大名火消)が制度化されます。
江戸時代の中期になると、享保3年(1718年)に南町奉行・大岡忠相によって町人により構成される消防組織=町火消が制度化され、町奉行の指揮下で活動し費用は各町が負担すると定められました。江戸時代後期から幕末にかけては、町火消が武家火消に代わって江戸の消防活動の中核を担うようになります。
町火消の構成員には、はじめは町内の住人や商店の従業員達も含まれていましたが、屋根仕事、力仕事を行う左官や大工、特に鳶職は消火活動における貢献度が高く、やがて町火消の中心的な役割を担うようになります。これが、町火消としての鳶職の成立ちとなります。
ちなみに、鳶職が使用する「鳶口」と称する道具(工具)は、火消しの際には延焼家屋の引き倒し(いわゆる破壊消防)や梯子乗りの支持に使用され、当時の消火活動において必要不可欠な道具でした。
火消としての消防組織は明治維新後に廃止・改編され、その歴史は現在の消防署・消防団に繋がることになりますが、伝統技芸の保存・伝承については社団法人江戸消防記念会がその役割を引き継ぐことになります。
現在、片口さんは家業のかたわら神田消防団第1分団に所属され、防火・防災活動等に携わっておられます。
3-3.トピックスー新門辰五郎
歌舞伎演目等の題材にもなる江戸時代後期の有名な人物で、鳶職であると同時に町火消、香具師、侠客、浅草寺門番(衛士)でもありました。「新門」の名前は、浅草寺僧坊伝法院新門の門番であることに由来します。娘は15代将軍・徳川慶喜の妾となりました。
武蔵国江戸下谷(現在の台東区)に生まれ、浅草十番組「を組」の頭である町田仁右衛門の下、火消や喧嘩の仲裁などで活躍しました。その後「を組」を継承すると共に、侠客の元締め的存在にもなりました。
徳川慶喜の要請により、京都二条城の警備等も行い、江戸幕府消滅後には徳川慶喜の側近として上野寛永寺での警護等も行っています。また、当時の幕府官僚だった勝海舟とも交流があったと言われ、鳶の頭として当時の社会に対する影響力の大きさを窺い知ることができます。
4. 鳶職の特別な仕事
通常の仕事に加えて、町火消にまつわる伝統技芸の継承者として江戸時代からの伝統を守る仕事をされています。「こちら神保町」をご覧の皆さんも、祭礼等においてこちらの側面でお世話になることが多いのではないでしょうか?
鳶職の町火消としての役割からは明治維新の制度変更により外れることとなりましたが、「木遣り」「梯子乗り」「纏振り」と言った伝統技芸は代々伝承され、現在は鳶職の頭で構成される社団法人江戸消防記念会が保存事業として運営しています。
片口さんは、昨年(2010年)に小頭(こがしら)に昇格され、社団法人江戸消防記念会の正会員となられました。
社団法人江戸消防記念会(本部は新宿四谷三丁目の消防博物館内)の主な事業として;
*江戸消防に関する史実および史跡の調査・研究
*江戸消防の風俗及び技芸の保存伝承
*消防出初め式等の参加および防火思想の普及啓蒙
等が定められています。
4-1.片口さんの特別な仕事(地域の祭礼等に関する仕事)
片口さんの属する四区五番組の担当地域:
現在の町名表記では、神田三崎町、西神田、神田猿楽町、神保町、小川町、駿河台、淡路町、錦町が担当となっています。
(片口さんによると、江戸時代には神田川以北が町人の住む地域として町名が存在し、現在の神田界隈は城内として外堀の境界内(武家・公家の住む地域)であったため、 ”いろは”の番付が無いとのことです。)
また、消防第四方面という区分に従い、千代田区の他、文京区、豊島区、新宿区の一部も受持区域になっています。
地元各町会と密接に連携しながら祭礼の運営管理、しめ縄張り、神輿の組立て、神酒所の設営、提灯飾り設置、年始の松飾り等、飾り物の販売や門松の設置等を行っています。
4-2.伝統技芸に関する説明
地元の行事や毎年1月の消防出初式等で披露される「木遣り」や「梯子乗り」等の説明です。
(社団法人江戸消防記念会のホーム・ページでは、「木遣り」を音声で、また「梯子乗り」を動画で鑑賞することができます。)
1)木遣り (きやり)
木遣りの本来の意味は、木を遣り渡す・回す(運搬する)こと。
木遣りは鳶職によって唄われる作業唄で、複数の人員で仕事をする際の声合わせ(力を一つにまとめるための掛け声、合図)として唄われていました。
木遣りには2種類があり、1)材木等の重量物を移動するときに唄われる木引き木遣りと、2)土地を突き固める、いわゆる地形の際に唄われる木遣り、とがあります。鳶の木遣りはこのうち2)の地形木遣りの範疇に属します。
当初は作業唄として、また火災発生時には火災現場におけるサイレン(火災出場の広報)の役割を果たしていましたが、作業そのものが動力化し人力に頼ることも少なくなるに連れて、木遣りも作業唄から離れて儀式化し、また一部俗謡化するなど聴かせるための木遣りへと変貌していきました。
このように鳶木遣りは、もともとは鳶職人の作業唄として生まれたものですが、町火消が鳶職人を中心に編成されたため、木遣りも自然のうちに町火消の中に溶け込み、受け継がれていったといわれています。(木遣り唄を唄う場合は、音頭を取る木遣師と受声を出す木遣師が交互に唄います。)
また、今日においては神道式の結婚式、地鎮祭、棟上げ、竣工式によく唄われ、無病息災、家内安全、商売繁盛をもたらす力(神通力)があるといわれています。
曲目としては「真鶴」のほか、「地、くさり物、追掛け物、手休め物、流れ物、端物、大間」など8種110曲があり、後継者づくりのため昭和28年先人の木遣り練達者により集大成された『木遣定本』を再版し、正統木遣り伝承の資料としています。
数多くある種類のなかで、代表的な木遣りの曲目紹介です。
曲目の内の「御城内」の歌本です。五線譜はありません。口伝えによる伝承です。
2)纏(まとい)
四区五番組の纏(角つなぎの纏)は左から5番目。
写真左側の絵図となります。
纏の歴史
戦国時代に軍師の将師が所在の標を馬側に立てたことに始まります。 江戸時代に入ると武家の纏は、火消し達が火事場で使う標識として使用されるようになりました。 火消しの標識として使用された当初は幟(のぼり)形式であり、現在の形になったのは享保15年(1730)とのことです。
江戸町火消の纒は大名火消・定火消の纒のような華美な装飾を禁じられ、
白と黒の2色に統一されているのが特徴です。纒は今日でも各組の象徴で
あり、心の拠りどころ、団結の中心的シンボルとして大切に管理されています。
纏の説明
纏の最上部の標識部分は「陀志(だし)」と呼ばれ、どの角度から見ても立体的に見えるように、ほとんどが三面からなり、軽くて丈夫で燃えにくい桐材が使われます。一辺の長さは、約60センチ(二尺)。
「陀志(ダシ)」の下に付いている48本の帯状の紐は、「馬簾(ばれん)」と呼ばれ、幅2.4センチ、長さ約90センチで、木綿の布を二重にして和紙を張り付け、胡粉(白色の顔料)を塗りつけています。 柄の部分は「真竿」とも呼ばれ、樫の木を用いています。長さ約1.7メートル。
最下部には蛙が両脚を踏ん張ったようなY字型の「蛙又(かえるまた)」と呼ばれる金具が付いています。
纏全体の重さは約22キログラム。 高さは約2.2メートル。
「陀志(ダシ)」は、それぞれの組の土地に関係あるものや、武家の紋所などをデザイン化したものが多いそうです。
3)梯子乗り(はしごのり)
もともと鳶職人は、はしごを使用して作業を行っていました。
また、彼らは高所で危険な作業をするため常に機敏さと慎重さ、そして勇敢
さが要求されました。火消の仕事もまた同じことが求められます。
こうしたことから鳶であり、かつ、火消でもある鳶職人は、そのための訓練
として梯子を採り入れたといわれています。また、梯子は火災現場確認の
ための櫓(やぐら)の役目、人命救助の器材として使用されました。
梯子乗りに使われる梯子は高さ6.5m、横さんが15本の甲
(足をのせる横木)からなり、真新しい青竹で作られています。
この梯子を僅か12本の鳶口にて支えて安定を保つためには、揺れ動く梯子で
の演技者と下で梯子を支える者との技術および呼吸が決め手となり、
結束の固さが妙技を生み出す秘訣といえます。
また、梯子乗りの形は大きく3種類に分けられ、これを細分すると48種類に
ものぼっています。
乗り方の技法
梯子の最上部で行う頂上技には、「八艘」(源義経が壇ノ浦で船を八艘跳んだとの古事による技名)、「遠見」(遠くの火災現場を見定める形)、「邯鄲」、「鯱」、「背亀」、「腹亀」、「唐傘」などに大別されます。
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「火事と喧嘩は江戸の華」「またその華は町火消」と言われ、また「江戸の三男」として「与力・相撲に火消の頭」と謳われたように、鳶の職人は江戸庶民の憧れであり頼りになる存在でした。
今回は、江戸時代からの鳶職人の伝統を守りながら建築・土木業に携わる片口さんのお仕事について紹介させて頂きました。
なお、本年5月には神田明神の本祭において鳶の皆さんの勇姿をご覧頂ける予定でしたが、残念ながら中止となってしまいました。次回の開催は現在のところ未定ですが、鳶の皆さんの活躍にどうぞご期待ください。
それでは、また。
(出典:社団法人江戸消防記念会ホーム・ページ、ウィキペディア)
(お店の詳細)
店名:片口土木
住所:千代田区猿楽町2-2-10
電話:03-3292-7778