神田教会を戦災から救った話し
第二次世界大戦末期、昭和20年になるとB29爆撃機が東京上空から焼夷弾を大量に落としていった。
とくに3月10日の空襲はだいきぼで台東荒川などの下町は一夜にして焼け野原に。死者8万人以上。喪失家屋26万戸以上といはれています。
その時は神保町周辺は戦火をまぬがれましたが、4月13日未明に焼夷弾の攻撃にあい我が家(猿楽町)をはじめ周辺の多くの家屋が消失。
神田教会も被爆。内部には非常用の乾パンが山積みされていたが、この上に焼夷弾が5・6本落下してきて火をふきはじめた。
たまたまそばにいた警防団員桐原礼三さんと同僚の二人は、焼夷弾を手つかみで庭に放り投げ、火災をまぬがれた。
二人の咄嗟の行動が無ければ、礼拝堂の内部の貴重な文化財やステンドガラスは炎上し、現在の優雅な神田教会は見れなかったことです。
私の兄が戦災の翌日、桐原さんから直接聞いた話しです。(三一小林)
西神田警防団第二分団消防部第三班(昭和14年10月)