こちら神保町「銭湯特集・その2 キカイ湯 第2回」
前回の銭湯の歴史に続いての第2回は、神田猿楽町町会「キカイ湯」の具体的なご紹介に入ります。
所属町会:神田猿楽町町会
銭湯の名称(屋号):キカイ湯
「キカイ湯」の由来:銭湯を建設する際、汽船のボイラーを初めて風呂釜に活用したことに由来するとのこと。 ボイラーは、その当時の世間では機械釜(キカイガマ)と呼ばれていました。
住所:千代田区猿楽町2丁目7番1号
沿革:
1884年(明治17)-創業者 東 由松がキカイ湯を創業。
長女 フジが(千葉県農家・石渡綱吉の次男)石渡雄三郎と結婚。
石渡雄三郎は東雄三郎となる。
1912年2月1日(明治45)雄三郎―フジに三男尭が生まれる(先代の経営者)
1912年(明治45)―雄三郎は由松に協力して大型の銭湯(薬を入れない普通の湯=白湯)を造り、「キカイ湯」と命名、元の小型浴場は同じ屋号のまま薬湯とした。
(近隣人口の増加に対応して、大型店を増築)
1923年(大正12)9月1日―関東大震災により、両キカイ湯および住宅を焼失。
1923年12月(大正12)-雄三郎は第2次キカイ湯を建て、営業を再開。
1945年4月13日(昭和20)―第2次キカイ湯が太平洋戦争の東京大空襲により焼失。
1949年11月(昭和24)雄三郎は第3次キカイ湯を建て、営業を再開。
1966年(昭和41)-重油バーナー(造湯装置)を導入する。
1967年(昭和42)-オゾン発生機(殺菌紫外線灯使用)を導入し、オゾンガスを浴槽に注入する。
1971年4月17日(昭和46)-キカイ湯を閉店廃業する。
昭和46年当時の正面からの写真です。
キカイ湯の特徴-ペンキ絵の元祖:
一般的に浴室を囲む壁には風景などが描かれています。これは通称「ペンキ絵」と呼ばれて古くからの慣わしになっていますがが、この元祖は「キカイ湯」なのです。
全国公衆浴場環境衛生同業組合連合会が発行した公衆浴場史(昭和47初版)の145ページには、”ところで大正元年に神田猿楽町の銭湯「キカイ湯(東由松経営)」が、浴室(流し場)周囲の板壁を活かして何か絵をかかげることを考え、画家・川越広四郎に依頼して絵を描いてもらった。ところが、この絵が評判となり、市内浴場はこれにならって思い思いの絵を描かせて浴客を喜ばせ、以来、銭湯の周囲の壁画は一般となった・・”とあります。
ちなみに、この壁画は年に1回の描き替えで、板壁に布を張り、その上にペンキ絵を展開したもの。 初夏の夜中、店の掃除の終わる夜中の1時半頃から画家が夜を徹して描き続け、朝までに仕上げられました。
ペンキ絵と浴槽および入浴客の様子です。
ここで問題です:
“銭湯の壁に富士山の絵が描かれている理由は何でしょうか?”
NHK第一テレビ番組 “日本人の質問”平成7年(1995)6月4日放送に東尭氏が妻の梅子氏と共に回答者として出演され、この質問に回答されました。
答えは:”子供の好きそうな絵をかいて、絵を見ながらおとなしく風呂に入れるのを目的とした。”とのことです。
当時のお子様は、風流な富士山の絵を鑑賞しながら、きっとおとなしく入浴されていたのだと、推測いたします。
次回第3回では、先代経営者のコメントをご紹介します。
それでは、また。
(参考文献:東 尭 著「米寿、志してやり抜いた話」青娥書房)
神田猿楽町町会HP担当-青野